伝統と科学をつなぎ、「歌を教える」を探究する学問

近年、日本でも、サイエンスベースのボイストレーニングが広まりつつあります。しかし、「ボーカルペダゴジー」という言葉は、まだほとんど聞くことがありません。

「ボイストレーニング理論のことですか?」「音声学とは違うのですか?」などよく聞かれます。

ボーカルペダゴジーとは、一言で言えば、「より良い歌唱“教育”とは何か」を探究する学問です。

歌唱の歴史や指導法はもちろん、呼吸、共鳴、フォルマント、身体感覚、運動学習、音声科学など、多くの分野を横断しながら、「どうすれば歌い手の成長を支えられるのか」を考えていきます。

今回来日するケネス・ボーズマン教授(以下、ケンと呼びます)は、この分野を代表する教育者であり、パイオニアにしてレジェンド。そして彼が長年取り組んできたテーマこそ、伝統的な歌唱教育と現代の音声科学を結びつけることでした。アメリカに渡った私の歌を、そして教育法を変えてくれたケンの教育哲学を、私の拙い言葉で紹介してみたいと思います。

歌唱教育に「科学」が必要な理由

ケンは著書『Practical Vocal Acoustics』の紹介で、次のように述べています。

“Voice teachers have been addressing vocal acoustics in some manner for as long as there has been voice instruction.”

(歌唱指導が始まって以来、声の教師たちは何らかの形で音響を扱ってきた。)

さらに、

“Our scientific knowledge about and understanding of vocal acoustics has grown exponentially in the last sixty to eighty years.”

(この60〜80年で、声の音響に関する科学的知識は飛躍的に発展した。)

つまり、優れた歌唱教育は昔から存在していました。しかし近年になって、その経験や感覚を音声科学によって説明できるようになってきたのです。

『Practical Vocal Acoustics』は、「伝統的な声の教育と、現代の音声科学の隔たりを橋渡しする」ことを目的とした書籍として考えることができるでしょう。科学は、長年受け継がれてきた歌唱教育を否定するものではありません。むしろ、その価値をより深く理解するための新しい視点を与えてくれるのだと私は思っています。

科学はゴールではなく、表現のためにある

ケンは、優れた教師について次のような言葉も残しています。

“Be science-informed, but not science-limited.”

(科学に裏付けられた教師でありなさい。しかし、科学だけに縛られた教師であってはならない。)

この一文には、彼の教育哲学が凝縮されています。

音声科学は、声を理解するための強力な道具です。しかし、歌は数値だけでは語れませんよね。

目の前の歌い手の身体や感覚、表現したい思いを受け止め、その人に合った指導へとつなげていくことが、教師には求められます。サイエンスだけでは、芸術を捉えきれるとは、私も思っていません。

また、ケンはこの表現を好んで、よく用います。

The voice is the muscle of the soul.

(声は魂の筋肉である / Wolfsohn, Hart)

声は、感情と深く結びついています。涙を流した時には、泣いた声になりますし、喜んだ時には喜んだ声になりますよね。

私たちの声は、感情表現として無意識レベルに用いられ、そして変動しています。ですから、表現をしたいという欲求は歌手にとって非常に重要です。

十分にトレーニングをされた歌手は、その衝動をきっかけに、声を「芸術的な方向」へと体の部位を向かわせることが可能です。発声技術とは、ただ筋肉をコントロールする、というだけではありません。何を伝えたいのかという表現の意図。それによって全身が協調して働くプロセスとして捉えることができるのです。

このシンポジウムで学ぶこと

「Vocal Pedagogy Symposium 2026」は、フォルマントや共鳴理論だけを学ぶイベントではありません。伝統的な歌唱教育から受け継がれてきた知恵と、現代の音声科学によって明らかになった知見。その両方を行き来しながら、「より良い声の教育とは何か」を考える二日間です。

ボーカルペダゴジーとは、特定のメソッドや流派を学ぶことではありません。

伝統を尊重し、科学を学び、その両方を歌い手の表現、そしてその教育法へと結び付けていくこと。

その考え方に触れることが、このシンポジウムの大きな価値の一つだと私たちは考えています。

引用・参考文献